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花尊し

花尊し

かつてのテロリストとしては

一言居士
往復書簡、闘士の遺言


かつてのテロリストとしてはグッとこらえる歯噛みの日々 Sat,23 Aug 1997 buchi

やぁ、ホッとしたぜ。彼らや私との付き合いが嫌になっちゃったんじゃなくってね。 ホンとにNCのメーラーは良いね。以前は貴方のメール結構文字化けしてたからね。私は、MSとNSのメーラーを使い分け。OSとデータのHDをクラッシュ対策で分けているのでね。受信はコピーしやすいMSて゛、大きい送信はNSとね。 あの談話室のシステムは、レンタルなのだそうだが、面白いね。私も契約してもらえるかなぁ。なにせ「カードレス」だからなぁ。

権力・体制・機構全ては人為ですね。人間は環境によって形成される, しかし環境もまた人間によって破壊・再生される。輪廻というか、メビウスの輪、クラインの壷。 かつての「テロリスト」としては、暴力衝動をグッとこらえる歯噛みの日々です。 一言だけ理屈こねます。「北方領土」問題に何か拘りがあるようですがそもそも「北海道」は、古来「アイヌモシリ」です。植民地政策の結果の「固有の領土」呼ばわりに過ぎません。私の生まれ故郷は「旧満州国」。これも「植民地政策」の時代の産物です。 常に人は、時の権力の恣意に翻弄されます。ユートピア論を待つまでもなく、「真理は何処」です。 だが、失望する勿れです。私が生きた実存を、この地に残し死するのみ。言いたいことは言い、やりたいことはやるのです。あくまで個人の存在の証明です。

休暇を取れないのですか。巨大企業もイマイチですね。 私などは、毎日が日曜日。ですが、子守りの日々です。13歳の「赤ちゃん」身長165CM.体重83KG.足の大きさ28CM.間もなく私を押しつぶしそうです。巨大な「解からず屋」との苦闘の日々です。また、これも人生。生きる歓びを感じています。 顔文字使いの連中に付いては、親が我が子の苦難の存在を語っている時にその心底から、苦渋を持って語っている時にあの「顔文字」は何事かとね。物事を弁えぬ対応と見たのです。TPOでやってもらいたいものだとね。違いますかね。






顔文字使いの人たちも毛嫌いせずに Sat,23 Aug 1997 sio

  以前の私のメールは結構文字化けしていたとのこと、知らずに人に迷惑をかけていたかもしれません。「不適切な表現」とは、その表現・言葉を使う側が意図すると意図せざるとにかかわらずに、受手が「アラ、嫌な言い方」と感ずる表現・言葉をいう、とのことでしたが、変な文字化けで不愉快だった人もいたかもしれませんね。今迄誰も文字化けしていると教えてくれた人がいなかったもので全然気付きませんでした。「顔文字使い」の人たちも「アラ、嫌な言い方」と感ずる受手がいるなどとは考えもしなかったと思います。「顔文字」は声も聞けない文字だけの世界においては色んな気持ちを表現する手段として悪くないと思います。あまり毛嫌いしない方が・・・
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「北方領土」問題に特に拘っているわけではありません。地球の表面に境界線を引くなんてのはナンセンス!と言える時がいつか来るのか?恐らくは自国の権益に拘り続け紛争、戦争を繰り返すのでしょう。ユートピアなんて夢のまた夢、この世の資源を食い尽くし残り少なくなった資源を奪い合い力の支配する生存競争のなかで、「排除の論理」からますます弱者は切り捨てられていくでしょう。失望する勿れと言われても、先に希望が見えるとも思えませんが、心だけは楽観的でありたいと思います。
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休暇を取れないわけではありません。海外だってその気になれば不可能ではありません。子どもを施設に入れておいて親だけ楽しく海外旅行・・という気になれないのです。私は開き直ってますので、そんな気持ちは無いのですが、妻がそういう「しょうがい」者の親としての罪悪感というか負い目から引込み思案なだけなのです。 巨大な「解からず屋」さんとの苦闘の日々、とのこと報われる事の少ない終りのない戦いですねえ・・・





「突撃小僧」大いに反省 Sun,24 Aug 1997 buchi

岩渕です。

>あまり毛嫌いしない方が・・・

失礼しました。さすが「タイジン」の風格。私は何時までたっても、「突撃小僧」。大いに反省致します。 あの「顔文字」。そしてあなた方のHPから
>「生活の様子」がおぼろげながら

との記述に激怒しちゃったのですね。「生活の様子」とは、恐れ入る。一般の「生活」とは、どんなだろうね。「じへいじ」のいる「生活」は、こんなだからねぇ。 「おぼろげながら」?一体、何を読み取っているのかとね。我が事のように「侮辱」を感じてしまったのでね。 BINにも悪いことをしたな。 妻からは「ボロクソ」。「まったく人に対して、優しさがない」と、言うことでした。そうかねぇ。トホホだね。

>報われる事の少ない終りのない戦いですねえ・・・

そんなことは無いよ。生きる歓びを感じていると、言ったでしょう。 「終わりのない戦い」こそ、私の歓びです。とでも、強がらないと、ホントにトホホだよ。
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「しょうがい」のある子を産んだことは、なんら恥ではない。罪でもない。 奥様を勇気づけて下さい。 私たちの子ども達の有り様について「この国に生まれたる不幸」と100年以上前にこの国の「ふくし」の泰斗が、言いきったそうですが現状も、まさにそのことにつきるのです。制度を見直させ、処遇を改善させなければなりません。 「しょうがい」をもつ子の「家族援助」の在り方は随分見直されてきています。父さん、母さんのリフレッシュ。休暇、大いに結構。皆とはいえぬが、レスパイトを利用して、でかけてますよ。 海外旅行、良いじゃありませんか。フルムーン旅行(失礼)で、良いじゃないの。子どもは、独立した別個の人格です。親もまたそうです。なんら、引け目を感ずることは、ありません。 私は「過去の罪業」の因果で、パスゃビザが、困難です。女房と娘が出かけても、私と息子はお留守番。 こんな所にも「生きる歓び」は、あるのです。






四面楚歌 Sun,24 Aug 1997 sio

  彼の書き込み「ばかみたい・・」のことですが、発言内容のことではなく、自分自身のことを指して言っていると思います。私たちの子どもに対する、歴史的な差別発言・・というような事ではないと思います。

・・四面楚歌といえば、私は、「項羽と劉邦」(実は漫画版ですが)が好きです。当分はHP作成に熱中ですね。





信義を裏切るのは辛い Tue, 26 Aug 1997 buchi

「掲示板」 のことだがね。貴方とZさんのHPから、「顔文字使い」が「おぼろげながら生活の雰囲気」がなどと書いたのが、私の怒りのスイッチ・オンだ。

【名  前】χ 08/22
【タイトル】sioさんへ
【メッセージ】
書き込みをしたら、sioさんの書き込みが先に書かれており、 間抜けなタイミングになってしまいました。
(^_^;) sioさん、もっとお話しをお聞きしたいです。私はあまり知りませんので、HPを拝見して、おぼろげながら生活の雰囲気を感じています。 sioさんが語ってくれる言葉は、私には貴重です。

だがね。M子さんには、叱られる。ご指摘通りに頭が上がらない。学校の後輩だがね。近頃じゃ「粗大生ごみ」。息子が一番。娘が二番。三、四が無くて。いやいや、づーつと無くて。最後が私だよ。出会いの当時の私は、「運動会のスター」で、一寸したモンだったがね。スカだったねってね。 ウン。話しを戻そう。あの「掲示板」のクリァーだがね。貴方のメールや、知人からの指摘もあってね。そんなもんかいなと、思っていたら。彼が再度の書き込み「ばかみたい……」と書いただろう。これは、私たちの子どもに対する、歴史的な差別発言。続いて、彼の仲間が「障害者です」だもんなぁ。もうなにをか言わんや。と、言うことだね。 私は社会に対してインティグレート出来るものを「しょうがい」のある人とは言っていない。

注)integrate (部分を)全体に結合する、統合する、完全にする、調整する

重度、重複、重症、合併症のある人という意味で使っている。自分で「障害者です」などは、問題外の外。通信フリークだったんだね、彼らは。彼女もか。ボランティァ・フリークなんてのも居るのかね。

注)freak 熱狂者、気まぐれ、酔狂、変態、奇形

授業の単位になる奇妙な時代だからなぁ。トレンディって奴かい。 しばらく、「掲示板」はメンテしてたから、メモ帳に更に戦闘的に書き込みの準備して行ってみたら、回し者のNC宣伝だぜ。四面楚歌の私には、それは有り難かった、相手にしてくれる人がいるってね。ありがとうょ。泣けてくるぜ、とね。「回し者」君への書き込みをプラスしようとして、クラッシュ!!!解かるだろう。がっくり萎えちゃって……。茫然自失。戦闘意欲もすっかりなくなり、何をか言わんやが状況を支配、クリァーしちゃったよ。 BINには、悪いことしたとメールしといたよ。貴方の名前は出さないが、知人からの批判的指摘として「あまり毛嫌いしない方が」の部分などを引用して、「タイジン」の世論とするとね。私は、何時までも「オトナ」になれない「トラブルメーカー」。それを退場の弁としてね。 彼女とは、貴方とほどではないが、何度もメールを通信していたのでね。うちのM子さんには、彼女に学べとね。言っていたところでね。


やぁ、たまげたぜ。 BINが、「私の試練」って「掲示板」に書いてるぜ。貴方の沈黙と私のクリァーが、「彼女の試練」だってさ。知ってたかい。私はこういう事には、弱いんだ。何とかしてあげれるものでもないが、「試練」は不味い。私、もう一度メール書くよ。貴方が「回し者」だって、書くぞ。「沈黙」なんかじゃないって。私のクリァーも、クラッシュ・フリーズの再起動の結果のトラウマだってね。こういう言い方弱いんだ「試練」だってさ。「しょうがい」のある子をもっただけでも「試練」なのにさ。私信の暴露は、切なく貴方の信義を裏切るのも辛いが、「試練」は駄目だ。勘弁してくれ。





理屈屋の差別語講座 Thu,28 Aug 1997 buchi

岩渕です。 中国の、いわゆる漢籍の一巻に、こうあります。

愚公ありき。
愚公いわく「オイオイ、家来あれは一体なんだ」と。
家臣いわく「殿、あれは馬でございます」
しばらくして愚公いわく「オイオイ、家来あれは一体なんだ」と。先ほど教えた動物と同じモノを指していうと。何度も何度も教えてもモノが解からない王様に対して腹を立て、ウンザリしちゃった家臣は、悪戯心もあって「ハイ、王よ。あれは鹿でございます」

これが、「馬鹿、ばか」の語源ですよね。この寓話は、いかに世襲であっても訳の分からないものには仕えることはない。という下克上の教え。つまり、殺してしまって構わないということ。もう一点、王たるものは、家臣の言うことを良く聞きこんなことじゃ、殺られるよ。という教え。 つまり、いずれにしても馬も鹿も解からんやつは殺られる話し。

私の子どもは日常的に「ばかのケンちゃん」と呼ばれています。私はその子をブン殴ります。子どもの頃聞きませんでしたか「ばかって言う奴が、ばかなんだ」って。 例え、自分を指してでも「ばかみたい」ということは「私は、まるで知的に遅滞しているモノみたいです」「ばかが、するようなことをしてしまった」ということで。 ですから、これは知的な「しょうがい」をもつ人を指して「ばか」というよりも、質が悪いとされるのです。 知的な「しょうがい」をもつ人を「馬鹿」というのは、今や、空は青い、雲は白いというようなことでね。古来、言い習わされてきたことだとしてだから「歴史的な差別表現」として、例のマニアルに載っています。てな、ことだね。 しかし、「じへい」の親で、「うちの子は、「せいはく」じゃないもの。「じへいしょう」はばかとは違うからね」なんてのもいるしね。 どう思いますか。以前、貴方が言っていたように、人間の性かい。 でも、私は許せない。

「項羽と劉邦」も良いけどね。私は「水滸伝」。時に梁山泊の夢を見るんだ。百八つの星の一つになりたくて……。義によって生き、義によって死にたい。 本日は、中国古典特集。まず此れ迄の読み切り。

貴方「掲示板」に復帰したんだってね。BINが、メールくれました。私に復帰の呼びかけしているってね。 信義を裏切ったのに……。私は、オンナよりも男に弱いんだ。本当に、勘弁して下さい。 「掲示板」は私はまだ、2つめのトラウマがケアされていない。見ればまた腹が立つしね。行かない。カッカするのは、心臓に悪いんだ。 今日は、9時からアサイチで道社協へ行って色々話してね。次年度計画出てるようだからね。それからYESへ行くんだい。昨日は行けなかった。「あちこちケンカ売って歩くんなら、ネットなんかやめなさい!!」って、叱られて。 ようやく、ご機嫌とって3万せしめたぜ。衝動買いして、ストレス解消!!! では、再見。






同士討ちで自滅は馬鹿らしい Thu,28 Aug 1997 sio

  「馬鹿」の語源は、下克上の教えと、家臣の言うことを良く聞けという教え、とのこと。 標柱か何かに平成の大馬鹿門とか銘した芸術家の作品が一般凡人に受け容れられなかったという最近の話題がありましたが、自分を馬鹿の位置に置くことで、謙虚に人の言葉に耳を傾ける、というような意味を込めた作者の意図が理解されなかったのだと思います。「ばかみたい」と言うことと「馬鹿である」と言い切ることの違いは大きいですね。 義によって生き、義によって死ぬ、一人位はこういう馬鹿がいなきゃ世間の目は覚めぬ、北島三郎の演歌ですね。 彼らも皆、いつか世間の目が覚めることを期待して、ネットの世界で情報発信している同志なのではありませんか。不勉強で軽薄な連中は同志の名に値しないと言われるでしょうが同士討ちで自滅するほど馬鹿らしいことは有りません。 子供たちと私たちの未来のために皆一緒に頑張りましょう!





平成の風来坊 Sun,31 Aug 1997 buchi

岩渕です。平成の大馬鹿門 それは、彼、「顔文字使い」の出身校、仏教大学でしたね。 実に「度量の狭い」対応と見えるのでしょうが、石造りの巨大な門に 「大馬鹿門」では、いかに悟りの境地とはいえ、後世の人は何と言うかと また、現世の「差別糾弾派」が、どう対応してくるかと右往左往したのだとね。 いずれにしても、いわゆる「一般凡人」の概念とは違う、「仏門・出家・宗教家」 たちの「解脱」の境地からの対応なのだね。 所詮、彼らも現世の俗塵にまみれた……。と、言えば、それまでですが。 私は貴方の見解同様 ノンシャランス(nonchalance 無頓着、無関心、平気)、アプリオリ(a priori先天的、先験的)に「……みたい」とほざくことと、 自ら確信をもって言い切ることの位相の差異と 「高みに立つことのない代弁者の位置」から、表現できることの有り様が、 それぞれの守備範囲なのだと思います。 しかし、それは私の役どころじゃないね。 私には「時間がない」。「力もない」。 だから、啓蒙運動は、貴方に「おまかせ」。 私は「突撃一番」。

『枯れ草の 大孤独居士 ここに居る』 永田 耕衣
『何を求める 風の中ゆく』  山頭火







社会に対しインティグレート出来る者 Sun, 07 Sep 1997 sio

社会に対してインティグレート出来るものを「しょうがい」のある人とは言っていない、とのことでしたが、
「WHOの障害分類三つのレベルの定義」に照らしてどうなのでしょう?

「差別・偏見の意識」の根に有るものは何なのでしょうか。空は青い、雲は白いというような事実認識の違いから来る誤解、無理解。晴れ渡った青空の青、対、ブルーマンデーの青。「じへいしょう」はばかとは違うなどと言う優越感、対、能力の低さへの劣等感。社会のルールに従えないことへの軽蔑、対、羞恥。「ハレ」を求める心、対、「ケ」を求める心。哀れみからの同情心、対、惨め感。同質を求め、異質を排除する心。これすべて人間なるがゆえの心と心の対立、人間の性でしょう。これを無くせということは、人間止めろということ にも等しいのでは・・?







疲れているんだ、面倒くさいこと考えるなよ!! Sun, 07 Sep 1997 buchi

WHOの三層の構造的理解について

1.impairment
損傷=心理的・生物学的、もしくは解剖学的構造ないしは機能の喪失または、異常。
2.disability
能力不全=上記損傷の結果として、人間として普通とみなされる方法 ないし範囲で活動を遂行する能力が制約され、また欠けること。
3.handicap
特定の個人の不利益=上記、損傷の結果の能力不全によってもたらされる特定の個人の年齢、性別、社会的並びに文化的要素に従って普通とされる役割の充足を制限または妨げられること。
と、されている。これがWHOの前提原則であるが。例によって、この国では為にする意図的な誤訳と、訳の分からない意訳が氾濫している。 厚生省の何とか言う「某高官」は、「WHOの理解などより、我が国の福祉は、木目細かく、包括的に優れている。 まさに日本型福祉といえる。WHO理解には当てはまらない人であっても、ケアの受給資格を与えている。」と、自画自賛。 それが何処の誰であるかは知らぬが、多分、労災・難病などのことを言っているのだろう。 「しょうがい」のある人、「しょうがい」をもつ人というのは、私の造語だ。他に、「しょうがい」と書く人を知らない。その前句は、重度、重複、重症の、更に合併症のある人々ということだ。 自らインティグレート出来る者は、既に既得権を得ている。それが少なくて我慢がならぬのなら、更に要求を高めることが、彼ら自身可能だ。
しかし、2.のdisabilityの種別・特性に対して、つまり、私の子どもに対して1.のimpairmentをもつものの中からさえことさらな「社会の否定的態度」があるではないか。 「障害者です」と、印篭をひけらかす逆差別もあるのだ。 私の子どもは、真駒内公園で車椅子マラソンの練習をしていた男から、 「こら、どけ。ばか!! あぶないべ。」と、怒鳴られた。 車椅子の障害者が、その障害を克服してスポーツしているのを邪魔するなという訳だ。 私がどう反応したか解かるだろう。その通りだ。「わからなかったもので……」という、付き添いの「偉いボランティア」の自転車の男を殴り倒した。 解かり易さと、解かり難さ。解かっていたら、どうだというのだ。子どもは叫べば良かったのか「しょうがいしゃ」が自転車の練習してるから、塞がないでと。 私は「ふくし」は、ボランティァなんぞがすることではないと、考えている。 社会が制度として当然持っていなければならないものと、考えている。 人間は、そうした社会を創れると考えている。「愚民化政策」にどっぷり漬かっている「幸せな人々」でさえ、なんか変だなと気付いてきたではないか。 「人間の性」ではないのだ。労働とは「賃労働」、生産とは「商品生産」、これを生活の手段とする社会にあっては比較生産力、比較学習力をのみ物差しにして、人間性を計っているからね。つまり、近代社会の構造は、所有と生産の問題に尽きるのだ。 ここでは「人間の性」と貶められて語られざるを得ないのだ。 では「生きる歓び」とは、なにか。近代からの超克。これだね。 ポスト・モダンなんて、ね。

「人間やめろ」そのとおり、近代に隷属して比較生産力を「人間の能力」と賃労働を「労働」と錯覚する、そんな「人間」は、止めちまえ。 働くことは「生き甲斐」をすること。勿論、「金儲け」が、「生き甲斐」の人も居るからね。 生産競争や商品経済の意味を理解できずにいる人を何故、「この社会のルール・労働の義務」とやらに、従わせねばならぬのだ。だから、私は「生き甲斐」をして欲しい。 だから、「生きる歓び」なんだな。





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